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空気の日記

カニエ・ナハ

  • 4月23日(木)

    夜中の3時ごろ起き出して散歩にでる、マンションのエレベーターが1階でひらくとふいに、懐かしいにおいがかすかに鼻先をかすめて、えっと、これは、あの、しろい、あの花のにおいのほそい糸を、たぐるように誰もいないまちを、2、3分あるいていくと、ビルとビルとにはさまれた、ほそながい、ちいさな公園の入り口の、黄色い「円」の字型のバーのかたわらの足もとの右がわのところ、闇のなか街灯に照らされて、白く浮かび上がっている、ジャスミンの花が、

    セブンイレブンのにおいのしないセブンイレブンで、外国人の店員さんに、紙パックの牛乳1本買うのにバックヤードからわざわざ出てきてもらうの申しわけないな、ごめんなさい、とおもいながら、透明のアクリル板とマスクとで二重に隔てられていて、アクリル板が灯りを反射して顔がてらてらと光っていてよく見えない、いつもよりもより隔てられてしまった気がする、どこの国から来て、どうしてこのまちで深夜にコンビニで働いてますか、ひるまはなにしてますか、きいてみたい、きっかけがない、てか日本語とっても上手ですね、おつりがないようにぴったりわたす、ありがとうございます、ごめんなさい、

    おめでとうございます、今日お誕生日だった森山直太朗さんの5、6年前の曲に「コンビニの趙さん」があり、昔から愛聴している。2、3年前スパイラルで詩の朗読というかパフォーマンスのイベントを、(直太朗さんの協同制作者で、詩人の)御徒町凧さんがされたときに、打ち上げにもぐりこんで、どのアルバムもだけどとりわけ「レア・トラックス」というアルバムが、その歌詞たちである詩たちがいかに素晴らしく、わたしが感銘を影響を受けたかということをお酒のいきおいも手つだって熱っぽく、わたしは御徒町さんに語ったのだった、目の前のひとのシャツのボタンが取れかかっていて気になる、ほぼただそのことだけをうたった「取れそうなボタン」とか、いつものカフェの隅っこで店員さんが食べてるまかないが気になって食べたくなってしかたないことをうたった「まかないが食べたい」とかの素晴らしさについて。昔、一時期「直ちゃん倶楽部」に入っていて、コンサートにも通っていたのだった、その日はじめて会った、要するにただのファンであるわたしに気さくに話しかけてくれた御徒町さんやさしかったなあ、うれしかったなあ、

    昨日の朝ドラで、直太朗さん演じる音楽教師が、主人公が内密にと云った、国際作曲コンクールで受賞したことを、またたくまにもらしてしまう、もらさないと話がすすまないので、誰かがこの役目をになわねばならなかった、しかたなかった、つまりは取れそうなボタンだった、そんなことをおもっているあいだもずっとその物語が流れるテレビ画面には右90度に倒されたL字型にニュースの文字が流れ続けていて気になる。朝の7時半から、あるいは夜の23時からやってるBSでの放送で見ればそのL字型はないのだけど、家の前におおきな樹木がある、雨がふるとその樹木の葉っぱが垂れこめて、葉っぱの角度が変わり、それがBSのパラボラアンテナに影響して、画面にあたかも葉っぱそのもののように、モザイク模様が現れる。風が吹くと、葉っぱが揺れ、画面のモザイク模様も揺れる。ときどき、ベランダにでて去年の夏から置きっぱなしの虫とり網をふりまわして、葉っぱをふり落とすと、画面のなかのモザイクも落っこちてきて、

    いまこの文章を打っているPCから顔を上げると、いくつかの山が見える。それはサント=ヴィクトワール山で、家にあるいくつかの図録からかき集めて、それらの頁をひらいてある、コートールドのサント=ヴィクトワール山、デトロイトのサント=ヴィクトワール山、チューリヒのサント=ヴィクトワール山……。いまとある仕事の勉強のため先日から読んでいる、建築家としての立原道造について詳細に研究されて書かれた種田元晴著『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016年)をひもといていくうちに、中盤の第三章にて、道造の描いた、浅間山を背景にしたある建築図がどうやらセザンヌのサント=ヴィクトワール山をもとにしているらしい、という記述に出会った、おなじころ、別のとある仕事の勉強のために読んでいた『新潮』2020年5月号、『文學界』2020年3月号に、それぞれに掲載されている山下澄人さんのそれぞれの短篇小説に、どちらもセザンヌが出てくる、きっとそのこと自体セザンヌへの、サント=ヴィクトワール山の連作へのオマージュなのかもしれない。私も寄稿している『ユリイカ』2020年3月号青葉市子特集にも山下さんが寄稿されているけど、そこにはセザンヌのことは出てこなかった、そこではセザンヌではなく「あおばさん」が出てきて、山ではなく海がでてくる。とにかく、それで家の中のサント=ヴィクトワール山をかき集めてみた、サント=ヴィクトワール山を描くセザンヌの筆触は、ちょうど雨の日の私の家のBSを映すテレビ画面に現れるモザイク模様に似ていて、

    「あ!これいいね」
    と、先月7つになり今月小2になったもののまだ授業のはじまらない女の子が覗きこんできていう。
    「どこがいい?」
    「ぐしょうとちゅうしょうがまざってるところ」
    「ほかには?」
    「ここの、ふでのタッチ」
    「あとは?」
    「このブルー」
    それからこれ見せて、といって、机の下にもぐりこんで私の足もとでサント=ヴィクトワール山ののってる画集の頁をくっていて、

    べつの仕事でメールのやりとりをしている、中原中也記念館のS原さんの前の職場が立原道造記念館で、要件のついでに道造について最近おもったり考えたりしたことを私が報告すると(ながい追伸!)、いまはなき道造記念館のまだ残っているホームページにて道造の墨画ならびにその画賛が見られるとのことで、URLを送ってくれて、その道造の墨画にはおおきなランプと、その下にちいさな椅子がある、そのよこの余白の空間に道造による墨字が浮かんでいて、

    願ひは……
    あたたかい
        洋燈の下に
    しづかな本が
        よめるやうに!

    「さむくない?」と足もとでまだ画集をめくりつづけている女の子に声をかけると、「だいじょうぶ!」と答えて、それからサント=ヴィクトワール山に戻って行って、

    東京・深川
  • 5月16日(土)

    「5月16日/しばたさん えびすリキッドルーム/・ハーヴィン・アンダーソン@ラットホール/・白髪一雄@ファーガスマカフリー/・河鐘賢(ハ・ジョンヒョン)@BLUM&POE/・塩見允枝子+植松琢磨@ユミコチバアソシエイツ/・松崎友哉、長沼基樹、大野陽生@ハギワラプロジェクツ」と書かれている、原文は手書き文字、去年の手帳である。表参道でラットホールギャラリーとファーガスマカフリーの展示みて、てくてく歩いて原宿へ、駅前のBLUM&POEに寄って、JRの竹下口から山手線に乗って新宿へ、新宿駅から都庁方面へ新宿中央公園を抜けて、てくてく歩いてって公園前のユミコチバアソシエイツで展示みて、塩見允枝子さんの作品集買って、そこから初台のほうへあと5分くらい歩いてハギワラプロジェクツへ。ハギワラさんとすこしお話しして、わたしのつぎの打ち合わせの時間がせまっててあわててとびだして、オペラシティを小走りでかけぬけてって初台駅で電車に乗った。

    オペラシティを小走りでかけていく。2020年2月28日のこと。打ち合わせが14時から渋谷で、それまでに谷中と初台の展示を見たい。もうあとがない。スカイザバスハウスが開廊するのが12時、スカイザバスハウスから初台まで駅までの徒歩を含めて50分くらい。逆算していく。まず11時50分に根津駅に着くようにして(なので、11時20分くらいに家を出て)、根津駅ホームからスカイザバスハウスまで徒歩、というか小走りで10分、スカイザバスハウスに10分、スカイザバスハウスからオペラシティまで徒歩(小走り)と電車とあわせて50分、となると、初台での滞在時間がおよそ35分間、ICCの青柳菜摘さんの展示(数回目、見納め)15分、企画展(「開かれた可能性―ノンリニアな未来の想像と創造」)15分、初台駅ホームからICCへの移動に往復計5分。初台駅から渋谷の打ち合わせ場所まで20分。これで待ち合わせ5分前に着く。オペラシティアートギャラリーの白髪一雄展は、後日。おそらくまもなく臨時休館になるけど、まだあと会期残り3週間あるから、きっと再開されるはず、と考えつつ、オペラシティアートギャラリーのエントランスを横目に見つつ、駅へと急ぐ、予定の電車の発車時刻まであとおよそ1分半。

    …と、だいたいいつもこんな感じで時間があるとき隙間を埋め尽くすように、分刻みで駆けまわっていたので、いまあらゆる展示が閉まっていて正直ほっとしている自分もいて、その癖して、結局そのまま再開されることなく会期が早期終了となってしまった白髪一雄展の図録をポチる、開会3日で閉まってしまったままの近美のピーター・ドイグ展の図録をポチる、まだ展示が始まらない現美のオラファー・エリアソン展の図録をポチる、…まではまだ良いとして、勢いあまって、過去に訪れた展示の、そのとき完売になっていたか、重たかったか、もち合わせがなかったかで買いそびれててずっと気になっていた図録たちまで、さかのぼってポチりはじめる。2010年Bunkamuraザ・ミュージアムのタマラ・ド・レンピッカをポチる、2011年ブリヂストン美のアンフォルメルをポチる、2012年新美のセザンヌをポチる、2013年都美のターナーをポチる、2014年西洋美のホドラーをポチる、…などなど。

    いまフアン・グリスの、何点かの図版のページを机の横にて開かれている(手もとにある図録だと、・ノルトライン=ヴェストファーレン展に1点 ・デトロイト美展に1点 ・フィリップス・コレクション展に1点 ・コルビュジエのピュリスム展に8点 ・アーティゾンの開館記念展に1点)、かれはキュビスムにおいてピカソ、ブラックに続く「3人目の画家」と呼ばれていた、とのこと、3人目でもじゅうぶんに名誉なことであるが、しかし「3人目」ということばの廻りに漂うそこはかとない哀愁があり、また比較的若くして亡くなってしまった(1927年5月11日に、40歳で)こともあり、それはさておき作品において、ピカソのブラックのキュビスム絵画のおおむねくすんだ沈んだ色彩にたいして、フアン・グリスのキュビスム絵画は明朗なあざやかな色彩で、また木目のテクスチャの描き方など繊細に具象で、分断されたレタリングやら壜やら楽器やらはどこか愛らしく、全体としての抽象とそれら具象のディテールとのバランスが絶妙に素晴らしく、先ずぱっと見に目に心地よく、かつよく見るとキュビスムらしい実験も試みられていつつ、目を彷徨させられつつ悦ばせられつつ、ピカソのブラックの「やったるで」感が希薄であるぶん、ある種の余裕や優雅さが感じられる、「3人目」ならではの強みが魅力があるとおもう。しかし、

       いつまでつづくのフアン・グリス
       心労でふえてしまうよ白髪一雄
       されどパンデミックはタマラ・ド・レンピッカ
       ひととの距離をジョージア・オキーフ
       まちにはだれもオラファー・エリアソン

    夜、恵比寿リキッドルームで柴田聡子inFIREのライブをみる。たくさんのひと、すごい熱気。昼間、表参道へ行く前に銀座線銀座駅でいったん降りて、駅前の和菓子屋あけぼの(芹沢銈介がパッケージをデザインしている)で買った、トートのなかの「銀座メロン」(今回のツアーアルバムの中の一曲「東京メロンウィーク」にちなんで)がつぶれないか心配。こみあった電車のなかでも心配していた、ずっと心配している。この日のライブはあとでライブアルバムになって、あれはスパイラルでクリスマスのころに柴田さんがトーク&ライブをした(いま、手帳で確認すると2019年12月6日20時~)、そのすこしまえにリリースされたのだった(いま、Spotifyで確認すると2019年10月23日)。

    「じぶんがそこに居たライブのライブ盤を聴いてると、映画『魔女の宅急便』のいちばんおしまいのあたりで、キキにデッキブラシを貸したおじさんみたいなきもちになります。」
    「やめてよバーサ。までも目に浮かびます。」

    カラーテレビの中の白黒テレビで大群衆が大歓声を上げている。……

       いつまでつづくのこのキキは
       やめてよバーサ
       あのデッキブラシはワシがかしたんだぞ
       かしましいニュースがウルスラ
       やめてよバーサ
       いつまでつづくのこのジジは
       かしましいニュースがトンボ
       あのデッキブラシはワシがかしたんだぞ
       やめてよバーサ

    「 落ち込むこともあるけれど
      私、この町が好きです 」

    こもってるあいだに今年のたんぽぽが綿毛になって飛んでってしまった。

    いつも行くばら苑のばらが刈られてしまった。

    ふじの花が落っこちてしまった。

    てっせんが枯れてしまった。

    あじさいが色づきはじめてしまった。

    くちなしが薫りはじめてしまった。

    *ジブリ映画『魔女の宅急便』より引用・参照箇所あり

    東京・深川
  • 6月8日(月)

    マリー・ローランサンの2014年三鷹市民ギャラリーでの展覧会の図録が、家の図書室のどこかに埋もれてしまっていて、もう何年も行方不明である。表紙が鏡のような銀で、とても目立つのだけど。この鏡の銀は、ローランサンの絵画に特徴的なフレームにちなんでいるとおもわれる、ことを思い出したのは昨秋、横浜美術館でみたオランジュリー美術館コレクション展で、ひさしぶりにローランサンの絵画を何点か見たときで、鏡であるフレームは、しかし経年により一部腐食していて、絵画自体はそれほど褪色等しているように見えない、相変わらず、良い意味で夢のように淡くくすんだ優美さと夢のように淡くくすんだ哀しみとを湛えた鏡のようだ、しかし、その夢のフレームのほうの鏡は現実の時間に着実に浸食されている鏡で、その前にローランサンの絵画を見て記憶に残っているのは、2016年東京都美術館のポンピドゥー・センター傑作選展で、ここに1点出ていた。1906年から1977年まで、おのおのの年に描かれたポンピドゥー・センター所蔵の絵画1年につき一点ずつが展示される、というコンセプトも、それをうまく会場構成に落としこんだ田根剛さん等による特異な会場デザインも印象的だったが、ローランサンは1940年の絵画として出ていた。五年後、1945年には絵画がなく、ブランクとして真っ黒な壁が、図録では真っ黒なページがある。そのことを、最近のニュースでおもいだしていた。ローランサンの鏡のフレームは、図録では省かれている(その代替であるかのように、三鷹のローランサン展の図録では表紙が鏡になっているわけだが)。ところで、その三鷹のローランサン展に行った正確な日付を私はおもいだすことができるのだが、それは2014年10月31日で、その日はローランサンの誕生日であって、しかもあなた(とわたしは記す。なぜなら6年前のわたしなどもはや〈あなた〉であるからだ)が行ける距離にてローランサン展が開かれていたのだから、あなたはそこを訪れたのだった(ちなみにローランサンの忌日は6月8日)。しかし、あなたには不思議だったことに、その展覧会場は、その日がローランサンの131回目の誕生日であるにもかかわらず、観客はほぼ、あなた一人しかいなくて、こんなに空いている美術館は何かがおかしい、と、あなたは訝しんでいる、つまり、誤って何かの拍子にフレームから鏡の中に迷い込んでしまったのではないか、などと。ローランサンの夢の鏡のフレームに、いくつにも分光された、あなたばかりが映っていて。そう、意外にも、再開となったら殺到するのではとおもっていたのだが、東京ステーションギャラリーも東京都現代美術館もガラガラで(このふたつが、あなたの家から最寄のふたつの大き目の美術館だ、自転車で行ける)、密というのであれば、スーパーとかコンビニとか公園のほうがよっぽど密なのであった。この2、3か月のあいだ、絵画というものの、実物を見ずに(あなたが所有している、家の壁に架けてある何点かは別として)、複製された図版ばかり延べ何千点だかと見てきて、当然あなたの絵画を見る視点なり視線なりはリブートされているとおもうのだけど、やはりマチエールそれからサイズ、そしてフレームということに、まずあらためて、あなたの意識はゆく。〈目の触覚〉〈視線の触覚〉とでもいうべきものが存在し、実物の絵画を走査する視線が、それを擦過し、感知する。視線の触覚にざらざらとした触感が残る。それがなんだというわけではないが。翌日、目覚めると、あなたの右目は充血していた。それは今日も未だ残っている。同様に映画館にも早速にあなたは駆けつけてしまったわけだが、ジム・ジャームッシュ「デッド・ドント・ダイ」初日、あなたの見た回の観客はあなたを含めて5名ほどで、ソーシャル・ディスタンスは保たれているであろうわけだが、左4、5席空けたとなりの席のおじさんがマスクのうちがわでとはいえ咳ばらいをすると劇場にそこはかとない緊張がはしり、あ、アダム、あぶない!すぐそこにゾンビが!やがて右後ろのおじさんのいびきが聴こえだすと、あれは眠っているんじゃない…、じきにゾンビとして目覚めようとしている!…などといった、スクリーンの中のホラーとは別種の現実のホラーが劇場内に二重写しになっており、それはそれで新種の3-D映画として面白がれなくもないわけだが、それにしても映画館とはかくもノイズの多い場所であったのだった、そういえば!とあなたは気づく。そういえば昨秋も、あなたは映画館のノイズのために、同じ映画を3回も見るハメに陥ってしまったのだった。一度目はあなたの体調がすぐれず途中寝てしまい、二度目はあなたのうしろの席のおばさんがポップコーンを食べる音が二時間強の間止むことなくあなたは(神経質なあなたは)全く映画に集中できず、の旨を終わったあと劇場係員の人にあなたは(神経質なあなたは)伝えるとおなじ映画をもう一度見られるチケットは心優しげな係員のひとにあなたは貰って、そして三度目にしてあなたはようやくその映画をちゃんと見ることができたのだった…、それでそんなこともすっかりあなたは忘れていて、こんど2ヵ月振りだかに映画館で映画をあなたは見て、映画館ってやっぱりいいよね!ってあなたはおもえるものと期待していそいそと映画館に駆けこんだのだけど、蓋をあけてみればそんなことは全くなく、映画館ってノイズが多い!ってあなたはおもって、人それぞれだもんね、しかたないよね!って、あなたは。映画館で、むかし、いまはもうない浅草の汚ったない映画館で、リバイバル上映の「寅次郎 あじさいの恋」を見たことがあったのね、昼間からお酒片手に…のおじさんたちが、なんと、オープニングのテーマ曲がはじまると、大合唱するのね、それから、寅さんが失敗すると「だめだよ、寅さん!」とかスクリーンの寅さんに向かってつっこみを入れて、等々みんなやりたいほうだいだったけど、めちゃくちゃ楽しかったんだ。むかしは映画をみるのって、みんなああいうかんじだったのかな。ああいうのだったらうるさくっても全然いいんだけどね。それからあとね、いろいろおもいだしたからついでに云わせてね、タランティーノの「デス・プルーフ」って映画(2007年くらい?)、公開初日(9月のあたまくらい?)に新宿武蔵野館で見たんだけど、あれ、エンドマークが出た瞬間拍手喝采が起こったんだよね、まあ、映画の中の悪役がさ、数年前のハーヴェイ・ワインスタインみたいになったってわけ(そういえばあの方、服役中なのにコロナにかかっちゃったらしいけど、無事なんだろうか、そもそも、あのひとのこの数年置かれてる状況ってもう全然無事じゃないよね!)あとはね、恵比寿ガーデンシネマが2010年だかに一度休館になったでしょ、その閉館前一番最後の回にリバイバル上映の「スモーク」見たんだけど(これも毎年クリスマスがくるたびに、もう十回は見た映画なんだ。クリスマス映画といえば「スモーク」だよね!)、そのときも終わった瞬間拍手喝采がおこったんだよね、あれは映画そのものっていうより、劇場へ向けての拍手だったとおもう。あの回も満員だったな、満員の映画館に万雷の拍手…、それらは映画館ならではの良い思い出として、あなたに残っていて、それらを思い出すとやはり映画館っていいな、映画館を守らなくては!とかあなたはおもうのだけど、しかし、おおかたは先日のジャームッシュのゾンビ映画の際のあなたのごとく、となりのおじさんのいびきがうるさいだの、うしろのおばさんのポップコーンがうるさいだの、そんなんばかりなのである。また、ひさしぶりに割引なしの正規料金1900円を支払ってあなたは見たわけだけど(レイトショー上映がないので!)、「自分への投資」込み、ということにでもしなければ、とても採算がとれないな(Netflixが月々1200円だもんね)、などとあなたはおもったのだった。それでジャームッシュの新しい映画の話のつづきで、クロエ・セヴィニーをあなたは久しぶりに見て、そうだあの、むかし、ほら、ヴィンセント・ギャロの映画でクロエ・セヴィニーがでてくる、あの映画めちゃくちゃ好きだったんだけど、あのギャロの乗ってる車のフロントグラスの窓の汚れ!あの汚れが!あの汚れなんだよ!それで、あの映画のエンディング近くで、タイトルにある〈ブラウン・バニー〉が出てくる、いや出てこない?ん…?出てくるヴァージョンのエンディングもあったけれど、公開されたものでは出てこないものになったんだったっけ?そういう話を当時、映画雑誌(いまはなき「日本版プレミア」とかだったかな?)で読んだのだったとおもう、〈ブラウン・バニー〉が出てきたか、出てこなかったか、あいまいにあなたはなっていて、でもその映像を頭の中で再生できるから、出てきたのかもしれない、それとも雑誌の記事で読んであたまのなかでつくりあげられた映像がいまあたまの中で再生されているのかもしれない、あなたの。ジャームッシュの新作のゾンビ映画では、墓場から、雑草のようにゾンビがニョキニョキ生えてきちゃってさ(向こうの席で、またおじさんの咳!)、「足並みそろうと全滅しちゃうので。」っていう、こないだ見た、石川佳奈さんのオンライン個展のタイトルと、その内容のことを思いだして、ずっと考えていたのだった、あなたは。

    石川佳奈さんの先日のオンライン個展「足並みそろうと全滅しちゃうので。」は(タイトルはある雑草学者の言葉から、とのこと)、当初5月に北千住BUoYのギャラリーで展示する予定だったのを急遽オンライン展示に再編成したとのこと。3つの映像作品で構成されている。1つ目の映像では、東京とか銀座とか北千住とか、東京の各所で、足もとで誰にも顧みられることなくひっそりと道端のアスファルトの隙間とかから生えている雑草が、人の手(石川さんの手だろうか)でむしられる。その様子を雑草の目の高さ(つまり人間にとっては超ローアングル)でとらえる、そのあまりにもささやかな行為には(当然)無関心に、周囲を行き交うひとたちの〈足並み〉が映し出される。それがロケーションを変え執拗にリフレインされる。絵画のマチエールを感知する目の触覚の存在をあらためて感じたことをさっき書いたが、石川さんの作品を見ていて感受したのは、ごくかすかな痛覚のうずき、それから幻のようにかすかな嗅覚の震え。

    先日あなたは、夜中にあなたの街をでたらめに散歩をしているとき、角を折れるとふいに、廃墟のような古い木造の家が解体されている途中の現場に出くわす。突然鼻を刺すするどい匂いに刹那、恐怖のようなものを感じる。植物が伐られるときの匂い、あれは痛みが匂いとなって発されているのだとどこかで読んだ記憶があるけど、あれに似ている。また一つあなたの街から雑草である建築がむしられてしまっている。それで石川さんの作品で雑草がむしられるとき(それはむしられているのであって、伐られているのではないのだが)痛みの匂いを発しているように、嗅覚がそれをモニターごしに嗅ぎ取ろうとしていたのだとわかった。

    むしる手とむしられる雑草とが交錯する一瞬に、植物は人間であり、人間は植物である、と錯覚する。それを錯覚するあなたもまた、束の間、その二者に同一化している、あなたもまたむしる人間とむしられる雑草とが一体になったものとなりそれを感知する視線の触覚があなたであり、幻覚する嗅覚があなたである。また、石川さんの、むしるまでにいくぶん、ときにさんざん、逡巡しているようにみえる、その長いような短いような奇妙なアイドリングの時間に、雑草とコミュニケーションを(あるいはディスコミュニケーションを)交わしている異形の空間が立ち上がっている、ように見える。これは、昨年一月にスパイラルのエントランスで展示されていた、石川さんの前の個展「触りながら触られる」に通じているように、あなたは感じた。ここでは手と雑草の関係が、「触りながら触られる」の人a(女性)と人b(男性)の関係と相似であるように、ふりかえってあなたは感じている。

    それにしても、むしられるとき雑草がもっとも雑草として立ち上がりわたしに迫りくる!と、眠りしなにこの雑草と手の映像のことを回想していたときふと巨大な雑草にあるいは巨大な手に覆われるイメージにあなたは襲撃される。

    2つ目の映像では部屋に持ちかえられた雑草がミキサーで分解されて濾されて紙になる。それは外の川べりの広場へともちだされ、草のうえに放置され、じきに風にさらわれて空へ放たれて川へと落下する。そのとき、どこまでが植物でどこからが紙なのか、あるいはどこからが植物である紙で、どこからが風なのか空なのか、どこからが紙でも風でも空でもある植物でどこからが紙でも風でも空でも植物でもある川なのか、わからなくなるような心持が、あなたはした。そしてそれらとあなた(たち)との境界はどこなのか。紙に問われる(映像)。いずれにせよもはやほとんど川である雑草は東京を脱出する。

    3つ目の映像で、公園に生えているなんでもない雑草をむしっていいものかどうか確認をとろうと役所に電話を石川さんがしている、電話にでた女の人が確認するために電話を保留にする、その保留音のチープなレット・イット・ビーのBGMが流れている間、石川さんがむしった雑草から紙をつくる子どもたちとのワークショップのダイジェスト的な映像が流れる。あらゆる子どもたちを見るときわたしたちは自分たちのなかの子どもたちをそこに二重写しに見ている、という視点がある(ならば、あらゆるものはジョンかポールかジョージかリンゴかに分類することができる、というレトリックも成り立つ。)同様に、あらゆる雑草を見るときわたしたちは自分たちのなかの雑草をそこに二重写しに見ていて、あらゆる雑草がむしられるときわたしたちのどこかがむしられている、そしてあるいは、雑草は巧みに企んで石川さんと子どもたちの手をかりて変身し脱出しようとしているのかもしれない、とあなたはレット・イット・ビーを聴きながら、石川さんと共に役所の女の人を待っている間、ぼんやりと考えている。

    あなたの家の中に雑草のように日々、本が増えていって今日、今、あなたが見たいマリー・ローランサンの画集が雑草に埋もれて見つからない。ローランサンが亡くなったときアポリネールからの手紙を胸に抱いて埋葬されたのだった。アポリネールはそのずいぶん前にスペイン風邪で亡くなったのだった。アポリネールがスペイン風邪で亡くなったとき枕元にはローランサンが描いた彼の肖像画が架かっていたのだった。美術史がかつてあまりにも男だらけだったので、ローランサンの画集は大変貴重なのだが、男どもの雑草に埋もれてマリーの画集がみつからない。そういえば、レット・イット・ビーの歌詞にはマリーがでてくる。ポールの若くして亡くなったお母さんの名前であり聖母でもあるのだったっけ。ジョンもまた、お母さんを早くに亡くしたのだったっけ。そして、じぶんが亡くなる日アニー・リーボヴィッツのカメラの前で胎児のようにしてヨーコさんに抱きしめられてそれから数時間後に亡くなったのだったっけ。ジョンが亡くなった日にパール・ハーバーが奇襲されてたくさんの男たちがそれぞれのマリーをおもいながらあるいは叫びながら亡くなっていったのだったっけ。息ができない…、ママ…って。あなたは。奇襲のように雑草がむしられて、感覚がいつまでもざわざわとささくれだっている静電気で微動している、いまは電源の落ちているまっくろいモニター

    東京・深川
  • 7月1日(水)

    こういう忙しい日に限ってこういうことは起るもので、机の下から出てこない。きょうおやすみするんだー。熱を測る。37.0℃。37.5℃あれば強制的に帰される。ちょうしわるいんだー。机の下から出てこない。ああ。机の下から出てこない。出てこない。あきらめて電話をかける。お大事にしてくださいね。じゃ、せんろつくろっかー。すこし線路をつくる。もっとおっきいのー。増設する。これ、のったよねー。またのろっかー。あれはいつだったか。このひと月のどこかのことだ。すこしゆるみはじめたころ。ひさしぶりに電車にのった。まず自転車にのって東京駅まで行って丸善で本を買って。東京駅から電車に乗って、山手線のあたらしい駅を見に行ったのだった。これー。あたらしい駅のあたらしい自動販売機で桃のジュースを買う。いちばん高いやつだった。180円もする。背の低いペットボトルにもかかわらず。べつのときのこと。これはつい先日のことだ。べつの駅で、おなじ180円の桃のジュースを買う。福島の桃の濃厚なジュース。でもそれを水色の電車の窓のところに置き忘れてしまう。まだ開けてもいなかったのに。あれは、赤羽から王子のあいだ。王子から都電に乗って鬼子母神前まで。

    都電の王子駅は正式には王子駅前駅という。駅前駅って。そこから早稲田方面へ向かうとまもなく、飛鳥山をのぼる。都電の線路が自動車と同じ道路の上を走っていて、前を行く自動車といっしょに信号待ちをしたりしている。車と車とにはさまれて。車電車車って。鬼子母神前でいっかい降りてギャラリーに寄る。こんなポスターばかりの展示久しぶりにみました。そういえば、昔タロウナスさんで、トム・クルーズの映画のポスターだけが貼られた展示ありましたよね、あれはびっくりしたけど、あれは作家は、えっと…。眞島さん。そんなことを話して、それからもういちど都電に乗って、早稲田まで出て、駅を降りてすぐのところにあるギョーザ屋さんでギョーザを食べて、それから地下鉄の早稲田駅のほうに向かって、駅前に公園があった。そこですこし遊ばせて、それから東西線に乗って、帰ってきたのだった。

    山手線のあたらしい駅から、となりの品川駅へ。東京駅で駅弁を買おうとおもったのだけど、閉まっていたのだった。それで品川駅へ出てみたら開いていて。とんかつ弁当か何か買って。ふたりでわける。常磐線に乗って、ボックス席で、がらがらの車両で、いま買った駅弁を食べたのだった。

    さっきのギョーザ屋さんのあたりで左に折れると川にでる。神田川で、ここに芭蕉庵がある。たしか東京で三つある。そのうちの一つ。もう一つは家の近くにある。芭蕉庵のところの急な勾配にある神社をぬけると永青文庫がある。ここで2年ほど前に良寛の展示を見た。あれはフィンランドから帰ってまもないころ。フィンランドのラハティでおじゃました、地元の著名な詩人レアリッサ・キヴィカリさんのお家で、愛読しているという、良寛の本を見せてもらったのだった。英訳された良寛の和歌を、レアリッサさんは読んでくれて、とても好きなのだといった。その和歌がどんな和歌だったか忘れてしまったが、水が出てくる。川についての歌だったとおもう。

    レアリッサさんに、別れ際、プレゼントをもらう。いろいろなものが入っている。レアリッサさんの絵、手紙、たくさんの蝶々を象った紙、それからムーミンのマグカップ。縁がすこし欠けている。わたしたち詩人っていうのは、このマグカップとおなじで、どこか欠けているものなのよ。

    芭蕉庵から川沿いに江戸川橋駅のほうへすこし歩くと、椿山荘にでる。毎年ここの庭園でホタルを見ている。こどものとき、ホタルなんて見たことなかった。おとなになってから、30を過ぎてからは、毎年ホタルを見ている。今年はひさしぶりにホタルを見ていない。椿山荘の庭園は閉まっていて、電車に乗ることさえホタルのころにはままならなかった。

    あのホタルが見られる郊外の田園が、ドラマの中で出てきた。一時期、毎年行っていたが、もう何年も行っていない。もしかしてあそこかな、とおもって調べてみたら、そうだった。それでひさしぶりにそこを訪れてみたい気もしたが、電車乗ることがはばかられるし、都外に出ることは禁じられていたのだった。それでホタルも、ロケ地めぐりも、あきらめた。

    テレビドラマなどというものを、もう長い間(記憶しているかぎり、20年以上)見たことがなかったのだけど、この間、久しぶりに見てみたら、けっこうおもしろくてつぎつぎに見てしまう。今年はホタルも見られないし。ホタルの代わりに家でドラマを見ている。ドラマなどもホタルとおなじで、いろいろなひとたちが入れ代わり立ち代わり、明滅している。それをぼーっと眺めている。

    新作のドラマが止まっているので、代わりに近年流行ったドラマの再放送をやっているので、とりわけおもしろいやつばかりが流れていたのかもしれない。「凪のお暇」を見て「中学聖日記」を見た。どちらにも女優のY・Yが出てくる。Y・Yは私の前の詩集にも出てくる(わたしが勝手に書いたのである)。たぶんわたしはY・Yのファンなのだとおもう。どちらもY・Yは主役ではないのだが、主役ではない、Y・Yが演じている人物の人生のほうが気になる。黒木華や有村架純よりも。もっとY・Yが演じている人物にフォーカスしてくれたらいいのにとおもう。それから、WOWOWのリモート制作ドラマで、大泉洋とY・Yの2人のドラマ「2020年 五月の恋」も見る。大泉洋が別れた元妻であるY・Yにまちがい電話をかける。そこから毎晩のように大泉洋とY・Yは電話で話すようになる。

    ときどき、電話のぐあいで、相手の声はわたしに聞こえているのだけど、わたしがいくら話しかけても、わたしの声は相手に聞こえない。ちゃんと聞こえてるよ。返事もしている。だけど届いていない。しんだらこんなかんじかな。いつもそうおもって、しばらくのあいだ、そんな臨死体験を、予行演習として、しばらくつづけている。もしもし、もしもし。うん、うん、だいじょうぶ、きこえてる。こっちは、きこえてるよ。そのまま、はなしていて。ちゃんと、きこえてるから。

    いくつかのリモート制作ドラマや短篇映画を見たが、もともとドラマや映画をみるとき、わたしたちは俳優と俳優が演じている人物を二重写しに見ている。リモート制作ドラマでは、俳優たちは自宅に居たり、自撮りをしたりしていたりする。いつも以上に、演じている人物と俳優そのものとの境界があいまいに感じられる。

    昔、ルイ・マル監督の遺作で「42丁目のワーニャ」という映画があって、それはチェーホフのワーニャ伯父さんの舞台の練習風景を撮った映画で、ワーニャ伯父さんを演じる俳優たちは衣装ではなく、普段の稽古の恰好をしている。しかし、通し稽古で、ワーニャ伯父さんの人物たちを演じている俳優たちをずっと見ているうちに、俳優たちと演じている人物のどちらを見ているのかわからなくなってきて、映画を見ているのか演劇を見ているのかわからなくなってきた。

    こないだ、待ちに待ちまくって、公開初日に勇んで見に行ったグレタ・ガーウィグの新しい映画では、グレタの前作でも主演を演じていたシアーシャ・ローナンが演じていて、その前作「レディ・バード」はグレタの自伝的な作品とされていて、そのグレタの自伝的な主人公を演じたシアーシャが、今回も、グレタが愛読してきた「若草物語」で、自分を重ねてきたであろうジョーを演じている。「レディ・バード」では、わたしたちは、シアーシャ・ローナンを見ながら、シアーシャが演じる人物(レディ・バード)を見ながら、そのモデルとなっているグレタ・ガーウィグを見ている。「若草物語」では、シアーシャ・ローナンを見ながら、シアーシャが演じているジョーを見ながら、「グレタの中のジョー」を見ている。かくも、あまりにも複雑な映画なので、わたしは一度ではとても見切れた気がせず、今日は7月1日で映画サービスデーなので、もう一度見に行きたかったのだが、今日はとてもそんな時間はなかったのだった。

    複雑な映画といえば、ビー・ガン監督の「ロングデイズ・ジャーニー」をこないだ見た。公開されてわりに早い時期に映画館がすべて閉まってしまったので見逃していたのだが、舞浜の映画館でやっていて、見ることができた。ディズニーランドのやっていない舞浜駅は閑散としていて、イクスピアリにも人はまばらだった。逆にこっちのが夢みたいだな、とおもった。「ロングデイズ・ジャーニー」のわたしの見た回はほかに3人の客がいて、ソーシャル・ディスタンスはまず保たれているとみてよさそうであった。2時間強の映画の後半1時間が3D映画になる。映画の中で主人公が映画館に入る。主人公が映画館でメガネをかけたら、そのとき観客もいっしょにメガネをかけてください。とあらかじめ云われている。しかし、映画がはじまるとすぐに彼は居眠りをしてしまう。彼は、わたしは夢をみている。3D独特のハリボテのような遠近感は、夢の遠近感に似ている。似ていない。夢をおもいだしたときの記憶の遠近感に似ている。似ていない。フェリーニの映画を思い出すとき、3D映画の遠近感でよみがえるのだが、フェリーニの映画は3D映画ではなかったはず。さっき見ていた映画のことを、じゃなかった、夢のことをいま、おもいだそうとしているのだが、どうしても思い出すことができない。いつもどおり、呼吸がくるしくて目がさめた。目がさめてすぐに、日記のつづきを書かなくちゃとおもって、いまこれを書いている。夢のなかで、いくつかの丘を越えた気がする。

    日記を書いているうちに、日記を書いているのか何を書いているのか、わからなくなってしまう。日々、記憶は増えていき、同じ電車に乗っても、いくつもの駅で降りたり乗り換えたりするので、そのたびに混線してしまう。2020年7月1日にもどると、線路は完成した。私は今日しめきりの原稿にふたたび取りかかるものの、またすぐに呼ばれしまいなかなか集中できない。テレビみる?プーさんみるかー。それで幸い、「くまのプーさん」とペンで書いているDVDがDVDの山のいちばん上にあって、プレイヤーに入れると、「くまのプーさん」と「ティガー・ザ・ムービー」の2本が入っている。ティガーの話、見てみる?うん。それでティガーの話を再生する。あ、プーさんだ!あ、ティガーだ!よし、これで1時間ちょっとの間は原稿に集中できる。ありがとうプー。ありがとうティガー。ありがとうクリストファー・ロビン。ありがとう100エーカーの森の仲間たち。

    「くまのプーさん」のラストでは、もうじき学校に行くことになるクリストファー・ロビンが「大人になると何もしないってことができなくなるんだ」と淋しそうに言う。何もしないことができない。これから原稿を夕方までに送信して、雨が上がったなら散歩にもつれていって、それから部屋を片付けながら夕飯のしたく、その間に、19時からのオンラインミーティングの準備もしなければいけない、そのあと24時までに日記も書かなくては。請求書の請求も来ている。あのメールもまだ返せていない。明日までに印刷所にお金を振り込んでおかないと。忘れないように。何もしないことなどできない。

    いまふりかえると、ステイホームの時期にはもうすこし時間があった。なにもしないこともできたのかもしれなかった。それでもずっとなにかをしてしまった。ドラマもたくさん見てしまった。もったいないことをしてしまった。気が付くと、床いちめんに、チョコクリスピーがばらまかれていて、はんぶんくらいは、すでに踏まれて粉々になっている。飛び跳ねた、ティガーが踏んづけたのだとおもう。チョコクリスピーの海をかきわけて、いくつもの電車が走りつづけている。わたしはつぎの電車に間にあいたくて、シアーシャのように駆けだした。

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