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連載:ZIPPEDを振り返る

2021.03.30

言葉を発しない身体がそこにある/インタビュー 百瀬文 Vol.8

  • 聞き手:秋山きらら(編集部/ZIPPEDフェスティバルディレクター)、テキスト:白井愛咲、秋山きらら

オンデマンド配信中の「無言に耳をすますパフォーマンスフェスティバル『ZIPPED』」。スパイラルが挑戦する、新たなパフォーミングアーツのかたちとして、マイム、演劇、ダンス、美術など多様なフィールドで活躍する気鋭のアーティストによる、「無言」を多角的に捉えた8作品をご紹介しています。
言語の違いや物理的な距離を越えて交流ができるいま、コミュニケーションの本質を捉え直し、新たな可能性を見出す機会であるとも言えます。まだご覧いただいていない方はぜひ、『ZIPPED』のパフォーマンスを通じて、身体が内包する豊かな「無言」の言語に触れ、身体の声に耳を澄ませてみてください。

今回はこのフェスティバルの模様を、参加アーティスト、観客、ライター、カメラマンなど、それぞれの視点から、ZIPPEDの本番や、開催までの各フェーズでは何が起こっていたのかを振り返り、パフォーミングアーツと配信の未来について考えていきます。

無言に耳をすますパフォーマンスフェスティバル『ZIPPED』(オンデマンド配信中)
https://www.spiral.co.jp/topics/spiral-hall/zipped

―― 早速ですが、近年のご活動やこれまでの経緯について教えてください。最近では身体性や触れること、眼差し、といったテーマに重点をおいて活動されているようにお見受けします。

百瀬:私はもともと、パフォーマンスを記録する手段として映像を使っていたんです。大学院に入ってから、関心が徐々に映像自体を制作することにシフトしていきました。「映像を見る」とは一体どういうことなのかを、映像という媒体を使って自己言及的に作品にしていくという、結構モダニズム的なアプローチを最初は取っていました。その中で「声」と「身体」を大きくテーマとして扱っていました。ろう者の人と一緒に作品を作って、「声」というものが持つ複層性を暴き出す作品を作ったり、聞こえる者(聴者)の外側にある知覚の存在を見せていくような作品も作ったりしました。そこから継続的に「声」と「身体」の問題をテーマとして扱っています。
というのも「声」というのは、態度そのものでもあるというか。フランス語で声のことを voix (ヴォワ)というんですけど、voix っていうのは「票」という意味もあって。「声」というのが「その人の言葉」ひいては「その人の意思」を意味するところがあるわけなんですけど、私は一方で、声を出せない人たちのこともすごく気になって。それは実際に声を出すことができないろう者の方と作品を作ることから色々考えたことでもありました。2017年ぐらいにニューヨークへACCという助成金で行ったんですけど、やっぱりそこで自分が突然「アジア人」というカテゴリーの中に入れられて、うまくコミュニケーションができなかったりするわけです、文脈が全然違う場所に行くと。そういう時に色んなマイノリティの人を目にして、「声を出せる人だけじゃないんだ」「声を出せる時点ですごく特権的な立場なんじゃないか」みたいなことも思ったんですよね。そこから「眼差し」というか、声を持たない者たちが持っているのは「目」「眼差す」ということだけなんじゃないかということを結構考えて、帰国してから『I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U』=「私はあなたが見える」ということ、見る者と見られる者という古典的な関係性自体を現代の視点でもう一度捉え直す展覧会を構成したんです。その展覧会の最初に出てくる作品が、今回パフォーマンスした『I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U』です。

耳を、目を、すます

―― 今回『ZIPPED』にお声がけしたきっかけでもある『I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U』の作品について、もう少し詳しく教えてください。内容としては『I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U』という文字列をモールス信号化して、まばたきで繰り返すという映像作品ですよね。

百瀬:そうですね。もともとアイディアだけは2017年頃にあって、ニューヨークでプロトタイプを作ったんですけど、その時は今とちょっと違ってました。私がまばたきをするのに従って画面も真っ暗になる、映像自体がまばたきをしているみたいな作品だったんです。2019年にリメイクというか改めて作品化しようとした時に、「映像自体がまばたきをする」ということよりも、もう少し一方通行のコミュニケーションが持つ身体的な「圧」みたいなものを剥き出しで見せた方が面白いんじゃないかと思いました。なので変にギミックをつけずに、ただまばたきし続けている人だけが映っているという、本当にそのまんまのことをやってみたら面白いかなと、かなりシンプルなアイディアで作品にしました。

映像作品「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(2019)

アイディアの元となっているのが、YouTubeで見ることのできる、とある映像です。どこかの国の捕虜が尋問を受けている映像で、質問に答えながら彼がまばたきをしていて、モールス信号で何かメッセージを送っている。彼の国の言語がわからないと結局そのメッセージはわからないのかもしれないですが、そうやって口ではない器官で言葉を発することができるってすごいな、と単純に思いました。かつ、それは暗号のように、届く人にしか届かない。そのことに耳をすまそうと思った人だけが、そのメッセージを知ることができる。実際はモールス信号の知識が無いとわからないんですけど、「何かここには言いたいことがあるんじゃないか」ということに「目をすます」じゃないですけど、耳をすませる。そういう態度を誘発するようなものになれたら良いのかなと、映像作品を作る段階ではそういうことを考えていました。

Zoomによってもたらされた「正面性」の凡庸さ

―― 当初『ZIPPED』全体を配信に切り替える前に、ホワイエで百瀬さんが実際にそこにいながらずっと上演をしているという案をいただいていて、「映像作品の内容を実際に上演してみる」というのはすごく面白いなと思っていました。最終的にはZoomを使ったオンライン参加型パフォーマンスを、メインプログラムの配信と同時進行で起こる別の出来事としてリアルタイムで行っていただき、プログラムに厚みがでたのではと思います。
映像作家としての活動と「上演」について、お考えのことがあればお聞かせください。

百瀬:難しいですね……。上演って、当たり前ですけど取り返しがつかないじゃないですか。起きてしまったことはもう、起きてしまったことである、ということ。そこに伴う「ヒリつき」みたいなことが映像よりも露骨に出てくるのかな、とか。あとはやっぱり本当に現実に身体が存在していて、そこに向き合う身体もある、みたいなこととか。
オンライン配信になった時にZoomに変えるというアイディアは、個人的には面白いなと思っていました。というのもこのZoomの形式自体、すごく正面性が強くて。私の今回のパフォーマンスのフォーマット、「四角い画面の中央に人がいて真正面を見ている」という構図自体が、ありのままの現実として私たちが緊急事態宣言以降に目にしすぎている風景でもあって。そこを踏襲しながら明らかな違和感を持ってくることができるというのは、個人的には面白かったですね。
画面の中央に人がいて正面を見ているって、映像的にはすごく強い画だと思うんですけど、Zoomが普及したことでその強さが当たり前になってしまったというか。構図の正面性みたいなことがむしろすごく凡庸なものになってきている。そのこと自体を逆に利用したようなパフォーマンスにアレンジできたら良いかなと思いました。私のあの映像作品ですら、このコロナ以後だと「Zoomっぽいね」と言われるかもしれないですよね(笑)。そういうこともすごく面白いなと思っています。

ZIPPEDでのパフォーマンスの様子 関連プログラム「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」

身体が発する無言の圧

―― Zoomを使った百瀬さんのプログラムは、3時間ずっと体力が持つ限りやり続けるとのことで心配していましたが、実際に3時間やってみてどうでしたか?

百瀬:メッセージを送り続けることで実際の肉体が疲労していくということ自体も、私は重要なことだと思っています。つまり、やっぱりコミュニケーションというのは言葉だけではない。身体から発される以上、そこにはいろんなノイズがあるわけですよね。そのノイズを積極的に取り込めるような構造にしようとした時に、ひとつ戦略としては「長さをとにかく持たせる」、限界を抱えた身体であることを露呈させちゃうというのがあると思っています。なので、やっぱり1分間で終わるよりはずっとやり続けた方が良いだろうなと。そこに苦痛が伴っている、でもやっぱりそこに切実に送りたいメッセージがある。一つの身体の中で同時にいろんなことが起こっている状態が私は面白いと思っているので、そういうコミュニケーションの複層性みたいなことは、通底してあるテーマなのかもしれません。

―― 3時間の中で私も出たり入ったりしながら拝見しましたが、Zoomだと身体のノイズが伝わりづらいはずなのに、明らかに疲れてらっしゃることが伝わってきました。あまり外を出歩かない生活様式になって以来、ちゃんと疲れることが難しいなと思っていたんです。「伝える」ことでちゃんと身体が疲労すること、それをやるには長い時間が必要であるというお話しにとても納得がいきました。

百瀬:そうですね。疲労を感じることがむしろ難しい、というのは私も思っています。精神的な疲労はめちゃくちゃ増えているんですけど、肉体的な疲労を感じられなくなってバランスが悪い状態というのが今たぶん世界中の人々が置かれている状況なんだと思います。なので肉体の方に意識を持っていきたい、というのは欲望としてずっとありました。

―― 今回の『ZIPPED』は、コンペティションやオムニバス公演とは少し違った形で、テーマに対してアーティストが応答し、クリエーションを通じて様々な回答を見せてくれるような形式を目指して企画をしました。『ZIPPED』全体のテーマ等に対する印象やご感想はありますか。

百瀬:「声を出さない」という縛りは単純に面白かったですね。本人の意思に関わらず、たぶん身体っていうのは何らかの「圧」を発しているんだと思うんですよ。コロナでその「圧」をモニター越しでしか感じられない世界になっているからその感覚は希薄になっているけど、言葉を発しない身体がそこにあるって、結構それだけで「無言の圧」があると思うんです。私はそれが面白いなと思っていて、言葉以上に雄弁に物を語るというか、そのものの価値にもう一度光を当て直すみたいなことなのかなと、面白くコンセプトを拝読しました。

代替物ではない配信のあり方

―― 配信に対する考え方も、アーティスト毎に様々でした。映像作家として、今急激に増えてきている配信という手法について何か思うことはありますか。

百瀬:最初、ブラウザで自分の作品を見られることに割と抵抗があったんです。ブラウザ上で見るというのは、例えばスライダーを動かして巻き戻したり早送りしたり、そういう時間の可塑性を鑑賞者に委ねることでもあると思うんですよ。私はやっぱり、ある映像体験を感じてもらうということは、その人の時間を奪って拘束してその場に留め置くという、ある種の暴力的な行為だと思っているんですよね。だからこそ、その責任に自覚的でいたいというか。その時間、その経験そのもの自体が作品だから、「映像コンテンツ」みたいになった時に自分の中でのその前提が揺らいじゃう感じがあって、ちょっと苦手だったんです。
映像作品だけでなく、あらゆる作品がオンライン化していく流れに自分は乗り切れなかった。「作品の代替物」として作品を映像化したものや配信がある、結局オリジナルがあってそのコピーでしかないものとして配信が行われるんだったら、やりたくないなと私は思っていたんです。
今回、観客の出入りが自由なZoomの形式を利用するというのは、この時代のZoomを前提とした時間感覚や顔の正面性に対するクリティカルな態度でもあるかなと思って、これだったらできるかもしれないというのはありました。あらゆる時代においてカメラが持っている性質というのは、その時代を反映していると思うんです。例えばドローンだったら上から何かを監視したり、俯瞰的にディティールを観察・管理するような画面になる。時代が要請して、そういうカメラ、そういう構図が生まれていく。その中で今まさにZoomの顔の正面性が生まれてきたわけですよね。限りなく私たちに身近で見覚えのある風景を使って何かをそこでやるということであれば、何らかのアクションになり得るなと思ったんです。だからやっぱりこれも結局、ツールに対する自己言及性みたいなところがないと乗り切れないというのは、自分の活動の初期からあんまり変わってないのかなと思ったりしました。

Photo: Hajime Kato

―― ありがとうございます。映像作品をそのままオンラインに乗せるということに対しての抵抗もあって、接触や上演ということに焦点がシフトしてきているのかなと思います。コロナの状況はまだしばらく続きそうですが、今どのようなことをお考えでしょうか。

百瀬:コロナによって生じる、身体の管理みたいなことがなんだかすごく気になっていて。例えば国家が人々の身体を管理・制限するという問題が起きた時に、私たちはどこまでそれを委ねるのか。また、個人的に今ジェンダーに興味があるので気になっていたのが、「緊急避妊薬の市販化の許可がなかなか降りない」ということがコロナ禍の中で同時に起こっていたことです。人々の身体を国家が管理している、例えば女性の意思で自分の体のことを自由に決定できないみたいなことが維持されたままにコロナの状況があるというのは、「国家がどこまで個人の身体に介入してくるのか」という問題を強く意識させられることでもあって。最近はそういうことを考えたり、何らかの形で作品にできたらと思ったりしています。

―― 福祉や国家と人権の関係について注意深くありたいとは思いながらも、「非常事態だからしょうがない」と言いつつ、行動や身体が制限されていることに慣れてきてしまっているな、と感じます。

百瀬:コロナの問題が難しいのは、誰かの命の問題がそこにあるということだと思っています。個人の思想だけではままならない。誰かが死ぬかもしれない、という問題がそこにあった時に倫理的判断と個人の自由意志の問題とがぶつかりあう。自分の一つの身体の中に異なる意識が同時にあるということですよね。そういうところで私も日々宙吊り状態になりながら考え続けているようなところがあります。

―― アーティストにもそれぞれの選択が迫られる中、みなさんがどういう方向に舵を切っていくのか楽しみです。本日はありがとうございました。

PROFILE

  • 百瀬文

    1988年、東京生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。パフォーマンスを記録するための方法として映像を用いはじめ、撮影者と被写体の関係性のゆらぎを映像自体によって問い直す作品を制作している。主な個展に「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(EFAG、2019年)、「サンプルボイス」(横浜美術館アートギャラリー1、2014年)、主なグループ展に「彼女たちは歌う」(東京藝術大学美術館陳列館、2020年)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、2016年)、「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋――日本と韓国の作家たち」(国立新美術館、韓国国立現代美術館、2015-16年)など。2016年度アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を受けニューヨークに滞在。2019年にイム・フンスン氏と共同制作した「交換日記」が全州国際映画祭(JIFF)に正式招待されるなど、近年国内外で制作や発表を重ねている。

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