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連載:ZIPPEDを振り返る

2021.03.30

喋ってはいけない劇場で、語り続けるために/公演レポート Vol.1


オンデマンド配信中の「無言に耳をすますパフォーマンスフェスティバル『ZIPPED』」。スパイラルが挑戦する、新たなパフォーミングアーツのかたちとして、マイム、演劇、ダンス、美術など多様なフィールドで活躍する気鋭のアーティストによる、「無言」を多角的に捉えた8作品をご紹介しています。
言語の違いや物理的な距離を越えて交流ができるいま、コミュニケーションの本質を捉え直し、新たな可能性を見出す機会であるとも言えます。まだご覧いただいていない方はぜひ、『ZIPPED』のパフォーマンスを通じて、身体が内包する豊かな「無言」の言語に触れ、身体の声に耳を澄ませてみてください。

今回はこのフェスティバルの模様を、参加アーティスト、観客、ライター、カメラマンなど、それぞれの視点から、ZIPPEDの本番や、開催までの各フェーズでは何が起こっていたのかを振り返り、パフォーミングアーツと配信の未来について考えていきます。

無言に耳をすますパフォーマンスフェスティバル『ZIPPED』(オンデマンド配信中)
https://www.spiral.co.jp/topics/spiral-hall/zipped

世界を覆うコロナ禍により、パフォーミングアーツのあり方も根本的な見直しを迫られている。この状況に対するひとつの応答として、2020年2月、「無言」をテーマにしたオンラインパフォーマンスフェスティバル『ZIPPED(ジップド)』が開催された。演劇、ダンス、美術など、各領域で活躍する8組のアーティストをセレクト。スパイラルホールを会場にライブ配信の後、日を改めて複数の配信プラットフォームでオンデマンド配信を行った。

作品内で扱うテーマや提示される美学といった内容面の共通性よりも、形式面の共通性に注目したキュレーションであった点が、本企画の特徴であろう。ジャンルの枠を超え、既存作から新作まで取り入れたプログラムは非常に意欲的であった一方で、形式縛りにしたからこその難しさもうかがえた。実際、アーティストによって「無言」の解釈は大きく分かれ、ある者は一切の言語的・音声的要素を排し、ある者は手話を、ある者は字幕や録音音声を用い、ある者はセンテンス以前の声を発した。「言葉」という日本語はもとより多義的で、声を発することも言葉という記号を用いることも、その中に含み込まれている。その多義性が反映されたアプローチの数々はそれぞれ興味深く示唆に富んでいたものの、フェスティバル全体としてはやや輪郭がぼやけてしまった印象を受ける。どの層にフォーカスするかが整理されると、制約から新たな可能性を拓くという企画意図が一層鮮明になるのではないだろうか。

今回選ばれた8作品は、いずれも身体への注視を促すものであった。ギリギリのバランスが保たれている時の息を詰めるような緊張、他者の痛みを見た時に覚える共感、目が合ったように感じた時の鼓動が跳ねるような動揺、床を擦る微かな音や呼吸に耳をすます時の集中——クローズアップやマイクによる集音などの映像的演出により、演者の身体の動きは拡大・増幅され、画面を越えて観客の身体感覚に働きかけてくる。物理的にも精神的にも「1人」で作品に向き合う中、演者の眼差しに捕らえられ、その呼吸やまばたきのリズムに引き込まれてゆくのは、ある意味でとても親密な体験だ。

他者の身体がリスクとみなされる新しい生活様式下の今、観劇体験は変容している。プライベートな空間でモニターの前に座ってオンライン配信を見ることは、孤独でありつつ自由で、他の観客がいる「客席」は遠いが、演者のいる「舞台」は近い。本企画の作品群は、この特異な距離感を活かして、場の熱気を共有する劇場の体験とは異なる新たなコミュニケーションのあり方を築こうとしているように思われた。

極めて身体的なアプローチ、しかしノンバーバルコミュニケーション礼讃というわけでは全くない。フェスティバルの最初と最後を飾る作品が象徴的に示すとおり、身体の動きもまた「言葉」としての側面を持っていることは忘れてはならない。安易な二元論的発想ではない、両者が知的かつ詩的に重なり合う豊かな領域の上にこそ、『ZIPPED』が目指した「無言のコミュニケーション」はあるのではないか。

 

百瀬文〈オープニングパフォーマンス〉

2019年に製作された7分の映像作品「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」を再構成した、2分間のパフォーマンス。

まず映し出されるのは、目を閉ざした百瀬の顔である。ゆっくりとまぶたを開けると、画面をまっすぐに見つめ、断続的なまばたきを繰り返す。完全な無音の中、観客は、彼女の呼吸や顔の角度の変化、微細な表情の揺らぎに目を凝らすこととなる。そして目を合わせ続けているような感覚は、画面越しであっても、見る者に一種の緊張感をもたらす。

百瀬はメッセージをモールス符号に変換し、まばたきによって発信を試みる。電子情報通信の発展に大きな役割を果たし、今日のデジタル社会の基盤を作ったこの符号は、秘密のメッセージをやり取りできる手段として、人々の想像をかき立ててきた。それは、まばたきの符号化についても同様だ。意思伝達や機器操作の手段として情報工学等の分野で研究開発が進む一方で、隠された暗号かもしれないという深読みから誤解が生じた事例も少なくない。

左右のまぶたの開閉をモールス符号に置き換える際の共通ルールはまだなく、そもそも符号自体も様々な種類がある。それゆえ、百瀬がどのような信号を発していると読み取るかは——「答え」のひとつは作中でほのめかされているにせよ——観客ひとりひとりに委ねられよう。「あなた宛」のメッセージか、はたまた意味を結ぶことなくヴァーチャルな空間に霧散していく記号か。符号のロマンがそこにはある。

 

ゼロコ「裏と表」

劇場の客席や舞台袖では、「静かにすること」が求められる。この静寂という約束事に注目した、ノンバーバルコメディ。

開演前の楽屋で、化粧やウォームアップをしながらくつろいでいた男性コンビ(角谷将視・濱口啓介)が、開演間近を知らせるベルを聞いて慌てて舞台袖に向かうも、しんと静まる客席に怯んだり持ちネタで滑ったりと、失敗ばかりを繰り返す。そのコミカルな様相を、舞台の表と裏を行ったり来たりしながら、日用品を使ったゆるやかな手品と大袈裟な身振りで描き出していく。とはいえ完全なる黙劇ではなく、笑い声やオノマトペ 、「あっ!」「えーっ!」といった感動詞、ちょっとしたデタラメ語は発される。その点で、無言というテーマはかなり広義に捉えられていると言えよう。

日本で新型コロナウイルス感染症が流行する直前の2020年2月に初演された本作(『Silent Scenes』)は、いま期せずして新たな意味を持つこととなった。感染症対策により客席が静まり返っていることは珍しくなくなり、双方向型ではない公演動画配信ともなれば、画面の前の観客の反応や拍手は舞台上のパフォーマーには届かない。作品中盤、ヴァーチャルな拍手の方法を提示した直後にリアルな拍手音が入ったのには意表を突かれたが、もしかしたら「誰かの拍手の音」は、配信を見る者のうちに代弁してもらえたような安心感や連帯感を生み出しうるのかもしれない。

Photo: Hajime Kato

 

石川佳奈「媒体」

手を前に組み合わせてゆっくりと歩み出てきた石川は、舞台の中央奥で立ち止まり、客席側全体を見渡す。そして正面に顔を向けたまま、上手に下手に歩いては立ち止まりを繰り返し、少しずつ客席側に近づいてくる。光が生み出す陰影とその色により、遠目には「ある」ように見えていた顔が、実は「ない」——凹凸しかないマスクを付けており、表情や特徴が消せ消されている——ことが、少しずつ明らかになる。その背景で、性別や年齢が様々な人の録音音声が再生される。はじめは「ちがっ」と極めて断片的であったその言葉は、徐々に再生される長さが伸びてゆき、「間違っています」という全体像を現すようになる。

ある時視点が大きく切り替わり、舞台に対して正面後方に仮想的に据えられていた「観客の眼差し」は、いきなり舞台の上に連れ出される。こちらにまっすぐに歩み寄ってきた石川が立ち止まると、先ほどの音声が重なるように再生され、波のように押し寄せる。その後彼女が背を向けて歩き出すと、視点は再び舞台全体を正面から捉える引きの構図に戻る。

個人を識別できない顔は、複数の声を受け止める媒体として機能する。また録音音声が流れるだけでなく、あるリアルな身体が現前することにより、そこにある種の重さと不気味さが付け加わる。

否定の言葉が繰り返されることで生まれる圧力。しかし最後の一言で、「間違ってます……か?」と断定が疑問に転じ、ふわりとした余韻を残した幕切れとなった。

Photo: Hajime Kato

 

久保田舞「Thread the Needle Day」

あるものの重力バランスの変化が他のものに連鎖的に影響する、言い換えれば「姿勢」の変化により「状況」に変化が生まれる瞬間を丁寧に捉えたダンス作品。机の前に座る久保田の手元のクローズアップから始まり、両耳にはめたイヤホンのケーブルをボトルの中に入れ、上を向いて口に花を差し込み、舞台上にある全てのものに直接的/間接的な「接触」を作っていく様がひとつひとつ映される。

上体を反らせることで花が落ち、机を傾けることでボトルが落ち、ケーブルに引っ張られることで椅子が倒れる——バランスが変化する決定的瞬間の前にモノとモノの間に見える緊張、そして針に糸を通すような微細なコントロールでその一瞬のポイントを掴もうとする久保田の集中力が、静けさによって浮き彫りになる。身体もまた、他の無機物と等しくそのバランスの中に置かれ、机にもたれるように倒れ込み、椅子から滑り落ち、ものの隙間にするりと入り込んでくぐり抜ける。

人やモノが倒れそうなのを見ると反射的に身体が動くように、眼前の何かのバランスが崩れる時、見る者の身体感覚も、まるでそれに同期するかのように揺るがされる。やがて久保田はモノから離れ、床との関係を探るような動きに移行する。その後耳からイヤホンが外れるとともに低く響いていたノイズ音がピタリと止んだ瞬間、モノと演者、更には観客とを結びつけていた「糸」は切れ、彼女は自律的に踊り始めるのである。

Photo: Hajime Kato

 

村社祐太朗「合火(準備)」

穢れあるものと食卓を共にすると穢れが移るという発想から、「合火を食う」ことは忌み嫌われてきた。古い意味合いを持つこの言葉を、コロナ禍において忌避されるようになった「食卓を共に囲むという行為」に重ねた、コンセプチュアルなパフォーマンス作品。

マスク姿の演者(中川友香)が、ピンク色のマットの上に用意された長短2本ずつの木材とアクリル板、金槌を使って、パーテーションのような道具を黙々と組み立てる。完成したところで一旦軍手を外して、しばし透明な面を覗くのだが、その目はあくまでアクリル板の表面を観察しており、壁が隔てた「向こう側」には向けられていないようだ。1分もしないうちに、彼女は再び解体作業に取り掛かり、道具も資材も元の通りに戻していく。

木材をくるくると回して方向を確かめたり、しばし逡巡したり、置きかけたものを戻したりと、手際が良いながら無駄も残る動作や、人の目への意識を感じさせない力の抜けた姿勢や振る舞いに、彼女が一人きりで作業している空間を覗き見しているかのような錯覚を覚える。また黙々と自分のペースで手を動かす様は、過剰な演劇性を纏うことを回避しているようにも見える。

現状復帰したところで、中川はスタッフブースと思しき場所に向かって大きく両手で丸印を作る。完了=終演の合図として。

Photo: Hajime Kato

 

渡辺はるか(OrganWorks)「prey/pray/play」

朱色のサテンにレースが施されたドレスを纏い、両手に皿を持って現れた渡辺が、2人分のカトラリーが用意された食卓につく。ソーセージの皿の前にはブタのぬいぐるみが乗った皿が、アーモンドの皿の前にはおはじきの皿が置かれ、かなり奇妙な光景である。彼女は見る者に挑発的なまなざしを向けながら食事を始めるが、ブタを手にとったあたりから様子が一変する。皿に突っ伏したかと思うと、手だけが別の生き物のように動き出し、先ほどまで皿の上の「食べ物」に向けていたフォークとナイフを自らの身体に向け始めるのである。後頭部を切っては人に差し出すような動作を繰り返した後、再び顔を起こすのだが、その表情からはもはや彼女の「意識」がどこにあるのかが読み取れず、狂気の様相さえ漂う。それに続いて展開される「切る」「刺す」動きを起点にした一連のムーブメントも、上肢とそれ以外のパーツが別個の意思をもって動いているかのようで、自傷的というよりは猟奇的に映る。

我にかえって皿を手に立ち去るかと思えば、おもむろに上を見上げ、再び何かに突き動かされたかのように動き始める。それから吸い寄せられるように食卓に戻ると、今度は顔を観客側に向け、ゆっくり側頭部にナイフを滑らせては自らの口に運ぶのである。

無音を凄味に変えるだけの強度ある身体性と世界観を備えた作品。クローズアップの演出、撮影角度の工夫など、映像ならではの演出が効いており、まるで一編のホラー映画のように仕上がっていた。

Photo: Hajime Kato

 

荒悠平と大石麻央「ひとり」

彫刻家・大石麻央と、ダンサー・荒悠平のコラボレーションプロジェクト『400才』のスピンオフ作品。屋外であらかじめ収録された映像と、舞台上で展開するライブの映像とが入り混じりながら展開する。

ランタンを手にステージに佇むサメ(サメの着ぐるみを着た荒)が、脇にある掃除機にゆっくりと手を伸ばしてスイッチを入れると、画面はいきなり草むらに切り替わる。茂みに分け入り、夕暮れの住宅街の坂を走り、夜の電車で揺られ、セレクトショップを覗き、移動の先々で仲間のサルやネズミ、クマたちと落ち合うサメ。忙しなく瞬く信号灯や流れゆく車窓の外の風景とは対照的な、のっそりとした動物たちの動きが、ゆったりと引き伸ばされた時間を描き出す。ニードルフェルトで作られた彼らの顔が動くことはない。しかしほんの少しの角度の変化で、様々な表情を見せる。

作品終盤、掃除機をかける緩慢な動作が徐々に踊りに転じてゆく瞬間が、とりわけ味わい深い。押して引く動きに合わせた左右の重心移動が、次第に奥行きと豊さを増し、空想の中で歩いているかのような足運びになってゆく——それにより、先ほどまでの旅の映像が一気に過去の次元へと遠ざかり、ぽつねんとブラックボックスにたたずむサメの姿が対比的に強調されるのである。

水中や宇宙空間を進むような独特の浮遊感を備えた荒の動きを、スローモーションの映像が増幅し、400年生きてきたサメの「日常」を詩的情緒をもって描き出していた。

Photo: Hajime Kato

 

冨士山アネット「Unrelated to You Ver.ZIPPED」

2020年に上演された『Invisible Things』より、標題の1作を特別ヴァージョンで再演。リズムに身を委ねるように踊りながら出てきた演者(南雲麻衣)が、耳にしていたヘッドホンを外すところから本編が始まる。

南雲は声を発さないが、その身体は極めて雄弁だ。日本手話を解さない者には、滑らかに展開する彼女の動きのどこまでが言語=手話で、どこからが自由な表現=ダンスなのかの判別がつかない。そして背後のスクリーンに映し出された字幕が、その「正しい翻訳」の役割を果たしているかさえも最後までわかりえない。

観客の認識を揺さぶり覆す巧みな仕掛けが幾重にも施されている本作は、安易な「理解」に鋭い批評的眼差しを投げかける。自分の知っている言語に理解を引っ張られ、取っ付きやすい情報に踊らされる私たちに、「あなたは知る由もない」「なんでも伝わると思ったら大間違い。そう!あなたはいつも征服したがり。」という字幕がグサリと突き刺さるのである。

最後に、南雲は次のように語る——「この世界では私はずっとZIPPEDです。これが私の生活様式。どう?ようやく私の時代が来たって事かな?」

Photo: Hajime Kato

PROFILE

  • ダンス研究
    呉宮百合香

    主な研究対象は、2000年代以降の現代ダンス。ダンスアーカイヴの構築と活用に関する調査も行なっている。フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ第8大学(芸術学)と早稲田大学(文学)で修士号を取得。日本学術振興会特別研究員(2017〜2019)。公演評や論考、インタビュー記事の執筆のほか、ダンスフェスティバルや公演の企画・制作にも多数携わる。「TOKYO REAL UNDERGROUND」事務局長、NPO法人ダンスアーカイヴ構想「デジタルダンスアーカイヴ」コーディネーター。研究と現場の境界で活動中。

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