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連載:杉野希妃のきまぐれビュー

2020.05.13

パプリカ


映画人・杉野希妃が、日常の気になること、映画のこと、好きなことなどを綴ります。

5年前と重なるのだ。
突如遭った交通事故がもたらしたのは、3ヶ月半の入院と7ヶ月の休業だった。
かつての生活には戻れないかも、と医者に言われた。
吸い込まれそうな停滞を前に、いったい自分に何ができるというのか。
痛みや孤独や焦りや怒りが、交互に、あるいは同時に寄せては返し、飲み込まれそうになりながら、何ができるのかということよりも、何を感じるのかを大切にしようと思った。
本を読み、映画を見て、散歩し、自分の意識に静かに入り、
心の奥にある澄みきったものに触れる。
雑音を遮断し、浸る、ひとりきりの静寂は、心のざわめきを鎮めてくれたのだった。

あの時と違うのは、近頃はNetflixに棲みついているということ。
セックスエデュケーション、アンオーソドックス、ハリウッド…
オリジナルシリーズを横断しつつ、毎夜映画に辿り着く。

4月のある日は『アトランティックス』に到着。
黒人女性監督が初めてカンヌでグランプリを受賞した作品。
セネガルを舞台に、恋愛映画から摩訶不思議なミステリーへと変貌する。
忘れられないのは蘇った白眼。
バタイユ「眼球譚」の眼が実は何も見えていなかったのに対し、
マティ・ディオプの眼はこの世の不条理をじっと見つめ、接近し、復讐する。
想いを果たした眼はきっと、海の中へ消えていくだろう。
白眼はずっと私に問い続ける。
地に足をつけて生きているのかと。

5月のある日は『パプリカ』を見つけた。
サイケデリックな夢とトラウマが溶け合うその自由さに感嘆する。
現実の虚構。
Zoomの虚構。
人間関係の虚構。
虚構は現実を侵食し、しまいには映画館に帰結する。
結局、ひとは自ら作りあげた虚構の中で、真実を絶えず探しているのかもしれない。

たまたま前日に買ったパプリカは皮がえぐれていた。
ネトフリタウンから抜け出し、真っ青な空の下で羽を伸ばした私は、小学校前のつつじを横目にスーパーへ と歩む。
カウンターにそろりと近づき、
「これ…気持ち悪くて食べられなかったんです」
自分の声が少し高くなるのを感じる。
間髪を入れず、中にいた初々しい彼女は答える。
「申し訳ありません。わざわざお持ちくださってありがとうございます。かわりにお好きなのをどうぞ」
折り目正しさと親しみを織り交ぜた、絶妙な口ぶりだった。

新たに選んだパプリカでいのちを潤し、
今日も私はパプリカを買う。

Kiki Sugino

PROFILE

  • 女優・監督・プロデューサー
    杉野希妃

    1984年広島県生まれ。2005年、韓国映画『まぶしい一日』宝島編主演で俳優デビューし、続けて『絶対の愛』(06/キム・ギドク監督)に出演。『歓待』(10/深田晃司監督)では主演兼プロデューサーを務め、作品賞と女優賞を受賞。その後の出演・プロデュース作は『おだやかな日常』 (12/内田伸輝監督)、『ほとりの朔子』(13/深田晃司監督)他多数。『マンガ肉と僕』(14)で監督デビューを果たし、第2作『欲動』(14)で釡山国際映画祭の新人監督賞を受賞。第3作『雪女』(16)は東京国際映画祭コンペティション部門に正式招待、ケソン国際映画祭で審査員賞を受賞。今後の公開待機作は 『ユキとの写真』(ラチェザール・アヴラモフ監督)等。

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